ローマ教皇の広島訪問から5年となりました。当時、ローマ教皇の前でスピーチするはずだったある人を自宅を訪ねました。
5年前の2019年11月24日。ローマ教皇フランシスコが平和公園を訪れ核兵器廃絶を訴えました。
梶本淑子さん「窓に真っ青な光が流れ、爆弾だと思ったとき、瞬間に工場は倒壊し、下敷きになり気絶してしまいました」
被爆者を代表して原爆の実相を語ったのは梶本淑子さん(当時88歳)
実はこのとき、証言をするはずだったもう1人の被爆者がいました。
被爆2世の細川洋さん。父・浩史さんは17歳の時、爆心地から約1・3kmの仕事先で被爆。去年11月、95歳で亡くなりました。
細川洋さん「親子として暮らしていた頃には原爆の話をすることはほとんどなかった。それは思い出したくもないできれば忘れたい記憶だったからという…」
父・浩史さんは建物疎開疎開作業中だった妹の瑤子さん(当時13)を原爆で亡くしました。生前、浩史さんは瑤子さんが記した日記帳を形見として大切に保管してきました。
橋本理香子記者「『B29の憎い憎い姿をみた』と書いてますね…」
洋さん「そうそう。度々B29が出てくる」
日記には当時13歳だった瑤子さんの暮らしが毎日のように記録されています。浩史さんは原爆についてあまり話そうとしませんでしたが、定年後、日記をまとめた本を出版したことがきっかけで被爆の実相を語り継ぐ活動を始めたそうです。
細川洋さん「これが最後の日ね。8月5日『あしたから家屋疎開の整理だ一生懸命頑張ろうと思う…以上』というね」
浩史さんは平和公園で行われたローマ教皇の集いで被爆者代表として証言する予定でした。本番へ向けて準備を進めていた原稿には妹・瑤子さんのことが
書かれています。
『妹は学徒動員の作業中、700メートルの至近距離で直撃を受け8月6日当日死亡してしまいました』
細川洋さん「大体、父が人前で発表している原稿はほとんど目を通している。集大成でこの2分原稿も色々意見を言いながら作っていって最終的にできたのがこういう形…」
しかし本番3日前、当時91歳だった浩史さんは体調がすぐれず、急きょ参加を断念。この思いが読まれることはありませんでした。
細川洋さん「(ローマ教皇来広から)あとの5年間でロシアがウクライナに攻めていき、イスラエルがガザ攻め、この(浩史さんの)願が通じない形で世界情勢がどんどん悪化していっているという忸怩たる思いがあると思います」
洋さんは去年、浩史さんの証言を引き継ぐ家族伝承者となりました。79年前に被爆した浩史さんと、瑤子さん。その思いと記憶を次の世代に伝え続けます。