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Home > ESSAY > 第50話 「矛盾のテリーヌと失敗作のパンケーキ」
土曜日の昼下がり、ブランチには遅すぎる本日最初の食事を取る。
「いただきます。」
しかしながら、僕は、ダイニングに腰掛けたまま、じっと、プレートを見続けている。
こんな低血圧の僕に、すっかり、あきれ顔の彼女は、アールグレイのアイスティーをチビチビと飲んでいる。
音楽家の彼女と、小説家の僕。
料理の苦手な彼女が作った献立は、生クリームとハチミツがたっぷり塗られた僕の大好きな「パンケーキ」と、グリンピースとニンジンとアスパラがぎっしりと詰まった僕の大嫌いな野菜だらけの「テリーヌ」。
矛盾する二つの「料理」との無言の睨めっこの末に、やっと、食欲のエンジンを始動させた僕は、フォークとナイフを器用に扱い、彩られたテリーヌと、ちょっとだけ焦げたパンケーキを交互に食べる。
しかし、嫌いなグリンピースを食べ残すとか、口の周りに生クリームを付けるといった愚行など、決して、彼女には見せてはいけない。
なぜなら彼女は、ただただ、あの言葉を待っているからだ。
「おいしいね。」
部屋の中に流れていた「ショスタコービッチ」の交響曲が、エンディングを迎えると同時に、僕は、最後の一片をペロリと口に運んだが、彼女の口角は下がったままだ。
「今夜はちゃんと来てくれるんでしょうね?」
もしかして、僕が子供のようにワクワクしていないのが、彼女には気に入らないのか?
いや、本番前はいつもイライラしているのが、彼女の日常とするならば、今日はまだ機嫌が良い方なのかもしれない。
「本番」と「日常」。
矛盾する二つの「世界」の中で、音楽家の彼女は、「今」を生きているのだ。
だからこそ、僕は、食器を片付けた後も、入念に爪の手入れをしている彼女の背中に向かって、ありったけの「祈り」を送る。
「必ず行くよ。」
駅から歩いて10分の所にある格調高いコンサートホール。
様々な楽器が踊る舞台の上で、白と黒の衣装を身にまとった彼女は、バイオリンを弾いていた。
交響曲第5番二短調 「革命」。
ショスタコービッチが、「自分」の求める音楽と、「体制」の求める音楽との乖離の中で、猛烈に葛藤しながら作った曲であり、ここ3カ月の間、僕の部屋で、ずっと流れていた曲だ。
「自由」と「秩序」
矛盾する二つの「思想」の中で、ショスタコービッチは苦悩し、その苦悩は、次の選ばれし表現者たちに、しっかりと引き継がれている。
彼女は、「本番」という非日常の中で、その「思想」と格闘しながらも、一心不乱に弓を引く。
そして、「革命」は、ショスタコービッチ特有の「速度の変化」を繰り返しながら突き進み、第四楽章の「歓喜の咆哮」が、空気の振動となって、僕の「皮膚」を突き刺した。
演奏も終わり、僕は、彼女の控室に、「ひまわり」の花束を持って向かった。
しかし、彼女は、今朝と同様に、ご機嫌斜め。
痛恨のミスタッチも無く、絶賛された演奏だったにも関わらず、彼女の口角は下がったままだ。
すると突然、小説家の僕に向かって、彼女は「言葉の剣」を振りかざした。
「才能って言葉、大嫌い!」
「もっと努力で誉められたいの!」
決して涙を見せない「冷静」な彼女が、1年振りに見せた「情熱」の爆発。
どうやら、表現者の苦悩は、その演奏が終わっても尚、続いているようだ。
ある哲学者は言いました。
「音楽は、受け入れる心を持たない限り、意味の無い騒音に過ぎない。」、と。
しかし、本当に、「才能」を称えるよりも、「努力」を褒めるべきなのだろうか?
どうも釈然としない彼女が履き捨てた言葉を、僕はゆっくり紡ぎ直した。
「才能」と「努力」
もしかしたら、僕は、「今を生きること」だけに夢中なのかもしれない。
それは、「色が見える」、「音が聞こえる」、「道を歩ける」、「物語を語れる」という「感受性」を持っているという事実。
僕は、そんな当たり前の事実を、「才能」だと考えていた。
もしかしたら、彼女は、「今を積み重ねること」だけに夢中なのかもしれない。
それは、「色を混ぜる」、「音を奏でる」、「道を切り開く」、「物語を作る」という「創造性」を持っているという事実。
彼女は、そんな当たり前の事実を、「努力」だと考えていた。
言い換えれば、「才能の意味を信じる」僕と、「努力の無意味を恐れる」彼女の矛盾する二人の「人間」の間に存在する「乖離」の中こそに、「苦悩」が生まれていたのではないだろうか。
「じゃあ、なぜ、人は生きるの?」
大きな瞳から、今にもこぼれそうな涙を堪えながら、それでも彼女は僕を、頼る。
「当たり前だ!」
もしかしたら、僕にとって、「死ぬ」ということは、音楽を聴けなくなる事なのかもしれないし、もしかしたら、彼女にとって、「死ぬ」ということは、音楽を作れなくなる事なのかもしれない。
しかし、本当に「死ぬ」ということは、「音が無くなる」ということだ。
「生」と「死」
だからこそ、この矛盾する二つの「現象」の中で、僕たちは苦悩するのだ。
そして、苦悩し、苦悩し、苦悩し続けた先に、「生」を受け入れる心を持ち、意味のある「死」を迎えるのだろう。
今ある僕と彼女が、互いの「生」を受け入れ、意味のある「死」を迎えるためにしなけれればならないこと、それは、「苦悩の騒音」を奏でることなのかもしれない。
日曜日の昼下がり、ちょうどブランチの時間に、本日最初の食事を取る。
「いただきます。」
相変わらず、ダイニングに腰掛けたまま、じっと、プレートを見続ける僕。
そんな低血圧の僕に、やっぱり、あきれ顔の彼女は、ダージリンのホットティーをチビチビと飲んでいる。
小説家の僕と、音楽家の彼女。
料理が苦手な彼女が作った献立は、生クリームとブルーベリージャムがたっぷり塗られた「パンケーキ」と、イチゴとオレンジとキウイがぎっしりと詰まった、「テリーヌ」。
無言の睨めっこを続ける僕は、彼女が待っている「あの言葉」を言う前に、語り始めた。
「ある音楽家が、こんなことを言ったんだ。ショスタコービッチが最初に作った交響曲は、初めて焼いたパンケーキのような失敗作だったんだってさ。」
そして、ちょっとだけ焦げたパンケーキをパクリ。
すると彼女の口角が、少しだけ上がった。
どうやら今日のデートは騒がしくなりそうだ。