番組は2015年3月をもって終了しました。8年間応援ありがとうございました!
新番組「よなよなテレビ」をどうぞよろしくお願いいたします。
全ての人に、平等に与えられているもの。それは、「過去」である。
ある作家は言いました。
「過去は人生を生き抜く原動力となる。」、と。
確かに、「過去」に得た経験や知識を用いれば、「未来」を切り開くことができるし、その郷愁の中で、「今」を生きることもできる。
しかし、僕にとっての「過去」とは、単なる「積み重ねた時間」という概念でもなければ、「ふと懐かしく思い出すもの」でもない。
それは、どうにかこうにか「折り合いをつけていくもの」であると考えているからだ。
言い換えれば、未だに僕は、自分自身の「過去」と折り合いがついていないのかもしれない。
過去を生きる。
僕が「過去」と折り合いがつけられない要因は、若さゆえの「無防備」であり、世間知らずな「無知」であり、自分自身の愚かさへの「恥の意識」なのかもしれない。
大人はそれを、「つまらないプライドだ」、と言う。
ならば、「人生のリセットボタン」を押すのか?
どうにかこうにか生きている中でも、僕は、できることなら、自分の「過去」を無かったことにしてしまいたい、という衝動に駆られることがある。
そして、同時に、「過去」から学んだ傷や痛みがあるからこそ、「今」の自分が存在していることもよく知っている。
この「過去」と「今」の葛藤こそが、「未来」への原動力なのかもしれないが、「時間」はそれを許さないかのように、冷酷にその時を刻んでいく。
全ての人に、平等には与えられていないもの。それは、「未来」である。
「未来」のことなど誰にもわからない。
そして、まもなく人生の折り返し地点を迎えることになる僕にとって、これからは、残り少なくなる「未来」よりも、積み重なっていく「過去」と語り合わなければならないのかもしれない。
そして、「過去」が僕の思考を支配し、「未来」を真っ黒にしていくのだ。
僕に未来はないのか?
ボブ・デュランの歌声が、彼女の笑顔を思い出させる。
沈丁花の香りが、彼女の声を思い出させる。
ラザニアの味が、彼女の温もりを思い出させる。
ヘルマン・ヘッセの詩が、彼女の涙を思い出させる。
日比谷公園の空気が、彼女の存在を思い出させる。
僕は、いつになったら自分の過去と折り合いをつけることができるのだろうか。
あの時、ボブ・デュランが、その神の声で歌っていた。
「思い出は、似たようなきっかけで復活する。自分が思い出せば、相手も思い出しているのだ。」、と。
大切なことは誰も教えてはくれない。
でも、大切なことはすぐそこにある。
そんな当たり前のことを理解するために、無防備で無知で愚かな僕は、「過去」と対話し、「今」と向き合い、「未来」を信じなければならないのだ。
そう、決して逆行しない「時間」の中で、自分なりの答えを見つけ出さなければならないのだ。
「過去」は、自分だけのものではない。
そこに、必ず「相手」が存在する。
もしかしたら、「折り合い」とは、自分でするものでなく、大切な人との共同作業かもしれない。
僕の記憶の中で、彼女は笑っている。
彼女の記憶の中で、僕は笑っているのだろうか?