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Home > ESSAY > 第38話 「思考するエベレスト」
「人はなぜ山に登るのか?」
そんな哲学的な問いに、こう答えた登山家がいる。
「そこに山があるから」
イギリスの登山家であるジョージ・マロニー。
20世紀の初め、まだ誰もその頂に立ったことのない処女峰を見上げ彼は言った。
その山とは、世界最高峰の山、エベレストを意味する。
エベレスト。
山は、その頂きが高ければ高い程、そのルートが険しければ険しい程、登山家の情熱を燃やす。
そして、その山が誰にも制覇されてなければ、なおのこと・・・。
2年前の冬。
僕は、ネパールのタンポチェにいた。
人生を登山に例える人は多いが、僕もまた、山からその答えを導き出そうとしていたのだ。
遥か遠くではあるが、確実にその大きさを無言で伝えるエベレスト。
その雄大さに、登山家でない僕は、ただただ圧倒され、こちらもまた無言になるしかなかった。
人間と山との対峙。
最新で万全な装備をしても、必ず登頂に成功するとは限らないのが登山。
天候に左右され、高山病にうなされ、凍傷と闘うのが登山。
足元を見たり、頂を見上げたりと、視線が上下するのが登山。
挑戦か撤退かの判断を迫られるのが登山。
しかし、そこで繰り返される問答は、あまりにもシンプルだ。
生きるか?死ぬか?
山は、そんな圧倒的な「生と死」を僕の目の前に提示する。
そして、その問いに答えることができず、黙っているままの僕。
いや、これは、どこか「言語化」することはできない「感覚的」な思考に支配されているのだ。
「不安」を言語化する。 「安心」を感覚化する。
「情熱」を言語化する。 「冷静」を感覚化する。
そんな思考の繰り返しこそが、山に登ることであり、人生を歩むことなのではないだろうか?
人間は弱い。
それなのに、人はたくさんのものを欲したがる。
いつも「欲しい」ものを言語化して、「手に入れたもの」に感覚的に支配される行為を正当化する。
失って初めて気付き、無くなって初めて得るものがあることを知るまで、ずっと・・・
本当は、「逆」なのにね。
ある登山家は言いました。
「いくつもの山に登ることができるが、その瞬間は、ひとつの山頂にしか立てない。」
だからこそ、今の僕は、目の前にそびえるこの山だけを登らなくてはならないのだ。