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Home > ESSAY > 第22話 「神様、お願い・・・ ~後編~」
「急性骨髄性白血病」
たった8文字の羅列によって記される病名は、幾千もの文字を使っても語りきれない少年の人生を簡単に終わらせることができる。
少年の余命が幾ばくもないことは、医者でない僕でも悟ることができた。
平等と不平等。
ブルーオーシャンとレッドオーシャン。
貧困と裕福。
負け組と勝ち組。
「経済」は常に二極対立構造をつくりだし、「利益」と「損失」の追いかけっこを続けている。
資本主義経済そのものが、一つのパイを奪い合うゼロサムゲームだと知っていても、人々はその甘いパイの一片を手に入れるべく、意味のない「血」と「汗」を流す。
1ドル。
そんな小額の紙幣でも、経済的意味を持っているのだ。
「経済」にロマンを感じなくなった僕は、失意のまま、フィラデルフィアの地を離れた。
希望と失望。
熱愛と失恋。
そして、生と死。
人は、人生を「右往左往」しているのかもしれない。
しかし、「人生」は経済のそれとは違い、右往左往にも意味があるのではないだろうか?
失望を刻まれてもまた希望を抱き、どれだけ傷付いてもまた愛を求める。
僕たちは、そうやって、「生きる意味」を問い続けているからだ。
生きる意味とは何なのか?
人は、その「道しるべ」として、絶対的価値である「神」を創造したのではないだろうか?
神に、生きる意味を問い、その答えを「救い」として生きるのだ。
そうすれば、「幸せ」を確認することができる。
そうすれば、「言い訳」を述べることができる。
結局、人は、誰かに聞いてもらいたいのかもしれない。
「話す」と「聞く」
この対話の構図は、誰か相手がいなければ成り立たない。
つまり、人は誰かと共に生きることで、人生の意味を初めて問うことができるのだ。
あの時の少年は、自分の生きる意味を知りたかったのではないだろうか?
だからこそ、誰かに「話し」たかったのではないだろうか?
もし、僕が医者ならば、あの少年の命を助けることができたのかもしれない。
もし、僕が弁護士ならば、あの少年の訴えを叶えることができたのかもしれない。
もし、僕が神ならば、あの少年の人生を救うことができたのかもしれない。
しかし、僕には「聞くこと」しかできなかった。
そして、少年はもう、いない。
だから僕は、クシャクシャになった1ドル札を見る度に、こう問われているような気がする。
「あなたのそばに誰がいますか?」