番組は2015年3月をもって終了しました。8年間応援ありがとうございました!
新番組「よなよなテレビ」をどうぞよろしくお願いいたします。
あなたは、どれくらいの時間、待つことができますか?
恋する人との待ち合わせ。
手紙の返事が届くまでの時間。
美味しいゴハンに有り付けるまでの待ち遠しさ。
息苦しい病院の受付。
僕たちは様々な場面で、「待つ」という行為を経験する。
そこに存在するのは、一人称による「相手」を思う気持ち。
あの人は今どこにいるのかしら?
どんな手紙が届くのだろうか?
今日のゴハンはカレーかな?
先生、早く診てください!
すなはち、「待つ」という単純で一人でしかできない行為においても、頭の中には、必ず、「待たせている相手」への思いが常に巡っているのである。
そして、その思いが時間と共に強くなればなるほど、その表情は乱暴になってくる。
こんなに待たせるなんて、僕はもうフラれたのかな?
いつになったら手紙は届くの?
腹が減りすぎて、イライラしてきた!
先生、もう倒れそうです!!
一人称での対話ゆえに、待っている間は、相手の声は聞こえない。
「期待」は、時間と共に、「期待はずれ」になり、待ちくたびれた僕たちに残るのは、「怒り」のみ。
しかし、ある哲学者は言いました。
「待つことは、心の中の相手との対話の時間。これこそ、祈りの時である」と。
人は何かを思うとき、つい、利己的な思考に陥っていまいがちである。
しかも、見えない相手との対話に負の感情を持ち込むことこそ、危険なのだ。
だからこそ、見えない相手への思いは、「祈り」へと昇華すべきなのではないだろうか?
あの人はきっと笑顔で現れますように。
次の手紙は恋文でありますように。
ゴハンを食べれて幸せになりますように。
身体が健康になりますように。
もしかしたら、待つこととは、信じることなのかもしれない。
つまり、見えない相手に対し、自分の思いを、声にならない声で伝え続けること。
これこそが、「待つ」という行為の醍醐味かもしれない。
哲学は、いつもこんなありふれた日常から生まれる。
さあ、僕ももう少しだけ彼女のを待ってみることにしよう。
そして、僕は待ちながら祈るのだ。
きっと、いつか出会えますように・・・